エルヴィス・プレスリーは陸軍に徴兵された1958年3月24日から2年間、実質的に音楽活動が出来ない期間を過ごしている。
そして除隊した後は以前の生活に戻ることが出来たのだったが、その間に実は決定的なものが失われてしまった。
最愛の母のグラディスが病に倒れて、1958年8月14日に亡くなったのである。
まだ46歳、早すぎる死だった。
夫のヴァーノンと3人、ときには息子と2人だけで貧しい暮らしをしていたグラディスが、幼いエルヴィスにいつも話してきかせていたのは、出産時に亡くなった双子の兄がいたことと、「双子の一人が死ぬと、残った子は二人分の力を得る」という言い伝えだ。
エルヴィスは物心がつくかつかないかの3歳時に、「今に僕が立派な家を買ってあげるよ。おかずを買うお金も僕が稼ぐよ。それにキャデラックは2台買うんだ。一台はママとパパのもので、もう一台は僕のだよ」という言葉を、母親に向かって発したという。
10数年後にその約束を果たしたエルヴィスは故郷に家を買って、ピンクのキャデラックをプレゼントした。
有名になってからでも母親の意見にだけは、エルヴィスはいつも耳を傾けた。
おふくろとはとても親密で、母親という以上の存在だった。ぼくは、昼も夜も、悩みがあれば何時間でも2人で話し合った。
だがグラディスのほうは子離れができない母親で、彼女の精神と肉体の病の根本にあったのは、エルヴィスの途方もない成功による不安だった。
古くからの知人がこんな証言をしている。
ミセス・プレスリーは、白豆、とうもろこし、それにバターミルクが好きでした。卵は六個、バターは一本、という買い物をする人で、おかねがたくさんある生活には、ついに最後までなじめませんでした。グレイスランドに移ってからも、シャンプーが25セントのものでしたし、歯みがきはいちばん小さなチューブのを買っていました。
それが彼女の生き方だったのだが、大スターの母親にふさわしく見えるようにと、マネージャーのパーカー大佐からは外出時の服装にまで、いちいちチェックが入った。
エルヴィスに釣り合った母親になろうと努力したことで、グラディスの精神はかえって不安定になっていったという。
エルビスのためにも、外観を良くしよう、と考えていて、もっと痩せて魅力的になりたいと思っていたようなのですが、体質的にやせることができず、太ったままで、さらに肉がついてきました。
だから、やせる薬を飲み始めたのです。習慣になってしまったみたいですね。それからお酒にきりかえました。
エルビスに誇りに思ってもらえるようになろう、ということだけを彼女は考えていました。エルビスが自慢してくれるような母になろうと、思っていたのです。エルビスはもちろん母を誇りにしていましたけれど、グラディスはやせる薬を飲み続け、お酒もやめられなくて‥‥‥ついに心臓がまいってしまったのですね。
特に兵役につくことになってドイツに赴任することが決まると、自分のベイビーが殺されてしまうと思いで、精神不安からアンフェタミンを何錠もビールで流し込むようになった。
すっかり肝臓がやられてしまったせいで、黄疸の症状が進んで入院したところ、すでにもう手遅れだった。
8月に葬式を行った後もエルヴィスは母のナイトガウンを抱えて、片時も離そうとはしなかった。
いつでも泣いていて、寝るときも椅子に座ってガウンとともに眠った。
母の死から4週間後の9月、エルヴィスは赴任先のドイツへ一人の兵士として旅立った。
それらの日々もふくめて、常に行動をともにしていた「メンフィスマフィア」と呼ばれる側近、ラマー・ファイクが後にこんな証言をしている。
エルヴィス・プレスリーの死を記録する際に覚えておかなければならないのは、”傾き”はグラディスが死んだ時に始まったということだ。
それは彼にとって最も強烈な体験だったんだ。
彼はもう二度と同じ人間にはなり得なかった。
ドイツに赴任したエルヴィスは基地の外にある家で暮らし、父親やメンフィスマフィアの幼なじみたちとも一緒だった。
しかし、外向けの音楽活動などはまったく行わず、普通に軍務をこなしていた。
その間に未発表だった「恋の大穴」が発売になると、1959年8月に全米1位のヒットを記録したので、不在でも人気の衰えはまったく見られなかった。
そして1960年3月、エルヴィスは79名のGIたちやその家族とともに猛吹雪の中で、ドイツからニュージャージー州の空軍基地に到着すると、陸軍基地に移動して兵役から解放された。
除隊後の初仕事はナッシュビルで3月20日に行われた徹夜のレコーディングで、その直後に発売された「本命はお前だ!」は4月から5月にかけて、全米1位のヒットになった。
その直後にはテレビの特別番組『フランク・シナトラ・タイメックス・ショー』に出演し、明らかに大人になったという印象を世間に与えた。
ふたたび4月3日にナッシュビルで行ったレコーディング・セッションでは、アルバム『ELVIS IS BACK』の12曲が一気にレコーディングされている。
さらには7月に「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」が発売になり、当時としてはエルヴィスのデビュー以来最大の売上を記録することになった。
その後も11月に「今夜はひとりかい?」、翌年3月には「サレンダー」と3枚のシングルがすべて全米1位になったので、2年間の空白によるブランクなど全く感じさせない完全復帰に見えた。
しかしながらその内実を仔細に調べていくと、入隊前と除隊後では大きく変わったところがあった。
メンフィスのローカル・スターだった頃から入隊するまでのエルヴィスは、いつも少年少女や若者による熱狂に包まれていていたし、本人にもやんちゃで奔放な面があった。
そのために大人たちからは敵視され続けたし、理不尽ともいえる非難にさらされることもしばしばだった。
ところが除隊後はロックンロールのカリスマだったエルヴィスではなく、ソフトでものわかりのいい好青年へと、ごく自然な感じで移行していったのである。
そうした変化にともなって楽曲もまた、野卑でエネルギッシュなブルースやビートを効かせた刺激的なR&Bやロックンロールから、メロディアスな楽曲を得意とするポップス・シンガーの面が打ち出されていく。
しかもひと昔前のスタイルばかりで、エルヴィスの歌声がなかったらさほど新鮮味もない作品が増えた。
大ヒットした「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」はイタリア民謡の「オー・ソレ・ミオ」が原曲だし、「サレンダー」も同じようにカンツォーネの「帰れソレントへ」を改作カヴァーしたものだった。
「今夜はひとりかい?」もやはり1926年に発表された懐メロ的な名曲で、エルヴィスには似合わないイージーリスニング局でも盛んにオンエアされた。
無名の頃は自分の耳で判断して知られざるブルースやR&Bを発見し、そこに仲間たちと新しい音楽の要素を加えることでエルヴィスならでは魅力を加えて、新しい時代が求める歌や音楽を自然につくり出していった。
だが、除隊後はそれまでよりも安定した名曲タイプが選ばれる傾向になった。
これはエルヴィスに聴かせる前の段階で、あらかじめパーカー大佐たちがデモテープを選ぶようになったことに原因があった。
彼らはいい作品を選ぶ基準も耳も持っていなかったし、利益が増えるように身内や仲間内の楽曲を優先していた。
そのせいで「監獄ロック」や「ハウンド・ドッグ」を提供した最強コンビのソングライターたち、リーバー&ストーラーが作品をほとんど提供しなくなっていった。
というのもパーカー大佐たちが彼らの印税の一部を必ず、自分たちの出版社に譲渡するようにと理不尽な要求をしてくるので、エルヴィスに曲を提供したくても嫌気がさしてしまったのである。
最も脂が乗っていた時期のリーバー&ストーラーの才能に対して、パーカー大佐たちも映画会社も何の敬意も払わなかった。
そんな裏事情で良い楽曲が集まらず、エルヴィスもまた箸にも棒にもかからない映画の中で流す曲なので、ひらめきやアイデアがわかなくなっていった。
そうした危機に気づかないままでいたエルヴィスは、あっというまに雲上人となってマネージャーのパーカー大佐の望み通り、保守的な模範青年を演じるようになった。
そうなると1962年の4月に全米1位の「グッド・ラック・チャーム」を最後に、まったくヒット曲が生まれなくなってしまった。
エルヴィスは27歳にして、生きながら伝説化していくしかなかった。
コンサートもテレビ出演も行わず、物語の脈絡に関係なく新曲を披露する他愛もない映画を年に3本公開し、それらが入ったアルバムを固定ファンに売るというワンパターンが5年間も続いた。
最初に熱狂していた若者たちや少年たちは特区の昔にエルヴィスを卒業し、自分たちでロックンロールやブルースを始めていった。
エルヴィスの歌で天啓を受けた子どもたちの代表が次々に登場したのは1962年から63年にかけてで、異端の革命児をの部分を引き継いだイギリスのビートルズと、歌詞に重きを置くアメリカの新しいシンガー・ソングライターのボブ・ディランを両極に、ロックという新しい波が世界を覆っていくのである。
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