エルヴィス・プレスリーが世界的に人気歌手の地位を確立したのは、1956年にアメリカだけでなくヨーロッパや日本でも大ヒットした 「ハート・ブレイク・ホテル」からのことだ。
エルヴィスにとって初のビルボード・チャート1位になり、売り上げも200万枚を突破して初のゴールドレコードをもたらした。
ロックンロールと呼ばれる音楽自体はそれ以前にも存在していたが、エルヴィスという歌手の登場によってとにもかくにも、ロックというものが、カッコよくて新しいという認識が、世界中の若者たちに広がっていった。
15歳の少年だったジョン・レノンは初めて「ハート・ブレイク・ホテル」 を聴いて驚き、「あれ以降僕の世界は変わってしまった。 エルヴィスは僕の人生を変えてしまったんだ 」 と後に何度も話した。
若者文化としてのロックンロールが確立されたことから、この曲によって日本の音楽シーンもまた急激に変化を遂げていくことになる。
エルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」を日本で歌って人気が沸騰したのは、ジャズシンガーを目指して米軍キャンプで歌っていた、まだ高校生の平尾昌晃だった。
当時のことを振り返って平尾は、新聞連載のコラムのなかでこう述べていた。
映画「暴力教室」(1955年米公開)の主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が決定的だった。ジャズはおしゃれで好きだが、映像とビートの効いた音楽が一緒に目に飛び込んできた衝撃は忘れられない。そのうちエルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」がはやりだし頭はロック一色に。ただ、当時はエルビスの映像や資料が少なくて、映画もなかなか日本に入って来ない。何を着ているのかも分からない。そこは勘を働かせるしかなかった。彼の歌を聴いていると「これは体を動かしながら歌っている」「ギターを下げて弾いている」―。彼の姿が目に浮かんで自己流でエルビスを作り上げていた。
その当時からロカビリー・ブームの中心にいた平尾は、その後に肺を患ったこともあって1960年代に入ると低迷し、作曲家へと転向を余儀なくされた。
ところが布施明が「おもいで」をカヴァーしてヒットさせて、さらに書き下ろした「霧の摩周湖」も大ヒットしたことで、作曲家として道が開けると、そこからはポップス系の歌謡曲で大成功を収めていくことになった。
兵役を除隊してからのエルヴィスが放ったヒット曲「G.Iブルース」を、坂本九が1960年にカヴァーするときに「みナみカズみ」というペンネームで、訳詞家として世に出てきたのがフェリス女学院大学に通っていた安井かずみである。
きっかけは楽譜を買いに行った発売元の出版社で、男たちが訳詞をしているところに出くわしたことだった。
安井は思わず「そこのところ、こんな言葉はどうかしら?」と口を挟んだことから、その場でスカウトされて訳詞の手伝いをすることになったのだ。
そこにいた男たちの中に訳詞家の漣健児、すなわちロカビリー・ブームの後に始まった和製ポップスのブームを先導する、新興楽譜出版社の草野昌一がいた。
そんな安井がアルバイトで訳詞を始めてすぐの頃、大きな影響を受けたのが『ハートブレイク・ホテル』であった。
この曲を聴いて安井はセクシーで情熱的なエルヴィスの歌唱だけでなく、ハートブレイクという心の状態にホテルをつないだ発想と、歌詞にも衝撃を受けたという。
〈参照コラム・「ハートブレイク・ホテル」誕生秘話 ~ 60年の時を経て明かされた謎とは?〉
坂本九が歌ったエルヴィス・プレスリーのカヴァー「GIブルース」で、安井の訳した作品は初めてレコードになったのは1960年のことだ。
こうして21歳という若さの女流訳詞家が誕生し、日本のポップスは変わっていった。
安井の訳詞のセンスに目を留めて新曲を書かないかと提案してきたのは、NHKの演出家で『きょうのうた』という番組を手がける林叡作だった。
彼は伝説の音楽バラエティ『夢であいましょう』の、後期のディレクターでもあった。
「オリジナルを書いてみませんか。あなたなら、何か変わった面白いものを作れますよ」と頼まれて、安井の作詞家としてのデビュー作「おんなのこだもん」が1964年に誕生する。
これを歌った中尾ミエが当時のことを、このように振り返っている。
「あの時代のポップスは日本全国津々浦々、みんなが聴いていて、みんなが口ずさんでいました。あの頃はとくに、イエイエイエとか、ウォーウォーウォーとか、リズムに音を乗せるから、意味がわからない言葉もある。いまだに歌っていて、意味のわからない歌もあるけれど、だけど、それが逆に口ずさみやすいんだと思います。安井さんが出ていらしたのは、そういう風に日本の音楽が変わっていく時代。時代にマッチした人が、その時代の色の詞を作ってくれた。安井さんは、そうした存在でしたね」
それまでになかった若者たちの日常の風景を描写する歌詞において、安井の洒落た都会的なセンスがひときわ光っていたのは、1960年代後半から70年代にかけてのことである。
1966年の「若いってすばらしい」(歌:槙みちる 作曲:宮川泰)は隠れた傑作との声が高く、それ以降は毎年のように大ヒットが生まれた。
1968年「恋のしずく」(歌:伊東ゆかり 作曲:平尾昌晃)、1969年「雪が降る」(歌・作曲:アダモ)、1970年「経験」(歌:辺見マリ 作曲:村井邦彦)、1971年「わたしの城下町」(歌:小柳ルミ子 作曲:平尾昌晃)、1973年「赤い風船」(歌:浅田美代子 作曲:筒美京平)、「草原の輝き」(歌:アグネス・チャン 作曲:平尾昌晃)、1974年「激しい恋」(歌:西城秀樹 作曲:馬飼野康二)「よろしく哀愁」(歌:郷ひろみ 作曲:筒美京平)‥‥‥。
最後のエッセイ集となった『安井かずみの旅の手帖』(PHP研究所刊)のなかで、自分の作品の原点について安井はこのように述べていた
自由に、言葉たちに表現力を持たせる。
大胆に、言葉たちを組み合わせてゆく。
存分に、言葉たちに印象を与える…… 時には造語的になる場合もあるかもしれないが。
身辺に、転がっている、そこらの言葉たちに、新しい、そして思いがけないイメージを与えるのは作詞家の最も楽しい作業である。
それらのヒント、きっかけは、『ハートブレイク・ホテル』だったのだ。
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